「36時間」という歌とその実践について
「36時間」という素晴らしい歌があります。
中島みゆきさんの楽曲。
一日は36時間と決めたんです。
他人(ひと)様の進み方は知りません。
優しいピアノに載せて、そう歌いだされるこの曲。
この歌における”一日”の定義はこう。
お陽さまが昇って次に昇るのが一日じゃなく
次が昇るのを見届けて沈むまでが一日
36時間という単位はあまりに不慣れで、頭の中で分解をし
24時間+12時間としてしまったが、全くの野暮である。そうゆう話ではないだろう。
実際にやってみたんです。
4:30に近所の高いビルに上って夜明けを見て、
19:00に日暮れを見て、
4:30に近所の高いビルに上って夜明けを見て、
19:00に日暮れを見ました。
季節柄、日が長いので36時間には収まりませんでしたが、
次が沈むまでを見届けなければという
まぁ俗に云う「石より固いそんな意思で」
見届けました。
仮眠はとりましたが、意外と起きていられて、いろいろなことを考えました。
そりゃあもう、LUNA SEAのDejavuばりに
未来・過去・現在、、、(ミライカコイマ、、、)
また、「36時間」はこう〆られています。
追い詰められた心たちよ 36時間に来ませんか
スポーツをやってる人なんかは自分で自分を追い詰めますよね。
僕も追い詰めます。あれ、気持ちいいんですよね。
でも世間様の厳しさは、スポーツのそれとはまったく違うし(全てとは言わないけれど)
追い詰めた人も加害者なんだろうな、心にとっては。
それが自分であろうと。
結果的に追い詰めざるを得なかった人の「心」、
人を介さないで追い詰められてしまった「心」、
これが実感としてわかることはないと思います。
存在はしているんだろうけど、実在はしていないものなので当たり前といえば当たり前ですが。
心という毎日聞いているものの所在だって
私は全く知らない儘、大人になってしまった
かの、林檎女史もこう申しております。
しかしながら、今回の「36時間」体験を以て
心が体のこのへんにあるかもな、くらいの感覚はありました。
痛みがあったから気付けたのかも。
日々がおそらく世間様でいう「充実」であっても
心は相当に傷(いた)んでいた、という話です。
余談ですが
こんなことを考えながら、私は仕事を辞めました。
もっといい会社、とか
もっと輝ける場所、とか
そうゆうのではないです。
空間的でも場所的でもない、
すなわち一般的に語られる”時”や”時間”の概念とは断絶した意味合いの
「36時間」に気付いたから。
「36時間」は彼女の作り出したお話であって、
人それぞれ「36時間」を作ったり見つけたりすることが、
人生と呼ばれているものなのかもしれない。
それを見つけられる可能性は
環境含めて今の自分にはないと思った。
それだけのこと。だと思っています。
(とかいう奴は大体それだけではない。)
辞めても、好きなものは好きなままだし、
好きな人や事はそう簡単に自分から離れていかない。
それから
はわからないですが。
"それから"の松田優作のようにやって行ける自信はありません。
優作に
……君の君自身によるアイデンティティは確実にここに確立された!
と言われたいな、野獣死すべし見よう。
さようならアリストテレス。
中島みゆき、偉大なり。ありがとう。